京都大学硬式野球部・4回生特集



氏名 石川 俊介
進路 京都大学大学院
4年間の
思い出
 おはようございます。2008年度の副将兼内野主任を務めていた石川です。この文章を書いている今は、引退してもう五ヶ月が過ぎた四月です。引退してからかなりの時間が経ってしまいましたが、そのおかげで自分の大学野球4年間を冷静にみつめることができる気がします。ちなみに言い訳です。遅れてすいません。
 大学入学一年目のことはイッパイイッパイだったもので、あまりよく覚えていません。実家から通いながら野球と勉強双方に全力で打ち込もうとし、しかし実際は空回りで、結果の伴わない日々だった気がします。そんな中、六月中旬の神大との定期戦に、守備だけですが出してもらい、モチベーションはかなり高く、夏休み・秋のリーグ戦へと練習に打ち込もうとしていた矢先、まさかの入院。髄膜炎とかいうよくわからない病気で二週間ほど寝たきり。落胆しているとこに、同回のチームメイトや先輩が見舞いに来て下さり、すごく嬉しかったのを覚えています。しかし退院後は、体力が入部当時よりもなくなっており、駅から学校までの五分ほどのチャリですら息があがり、めまいに襲われ、練習も満足にできずへろへろでした。一年目を一言で言うなら、我武者羅かな?少しよく言いすぎている気もしますが。
 二回生の春リーグ、関大との開幕戦に代打としてリーグ戦初出場。相手ピッチャーのキレのあるストレート、変化球に何もできず、緊張もあったせいか、カウントを間違え気づけば見逃しの三振。何もできずに初舞台は終了したが、リーグ戦のレベルを肌で実感することができ、もっと練習しようと燃え上がった。気がする。そしてついに、対近大との試合でセンター前に初ヒットを放った。どうやって打ったか全く覚えていないが、気づけば打球はセンターに抜けていた。春はこの一本だけであったがすごくうれしかったのを覚えている。リーグ戦が終わると、一回生で単位が少なかった分、かなり授業に力を入れた。そのかいあって、勉強のほうは少し余裕ができたが、野球の方はあまり伸びなかった。それは秋リーグの結果にもつながった。そして秋リーグも終わり、最上級生の引退。田中さんの最後のシーズンでのヒット13本という大活躍に驚いていた。そして自分の非力さを思って、不安になっていた。だがこの後、少し自信をつけることとなる。
 それは、秋の新人戦でのことである。近大との一戦目は初打席からヒットを打つなど非常に調子がよかった。試合は負けてしまったが、私立に対して感じていた絶対的な力の差という壁はなくなりつつあった。自分の悪い癖の一つであるが、自分の力を過小評価することによって、自分の実力はこんなもんだろと考え、全力で打ち込む前に初めから諦めてしまうことがある。野球に関してもその傾向はあった。三回生の春シーズンを終え、自信がつき始めてからは、十分戦えると確信し、大学生活の時間の大半を野球に注ぐようになった。今思うと、始めの二年間はリーグ戦レベルを全く考えておらず、低い意識の中での野球であった。話を新人戦に戻そう。同志社との二戦目はかなり楽な気持ちで望む事ができた。アップ中に鼻血を出し、鼻にティッシュをつめてランニングし、同志社に笑われるという余裕もみせることができた。しかし、試合が始まってみれば、あまり調子は良くなかった。ノーヒットで迎えた9回裏同点、1アウト2塁での最終打席、スイングするもタイミングが全く合わず嫌な感じ。それを察知したのか、村井監督はここで勝負に出る。1−2(たぶん)から出したサインは、なんとエンドラン。動揺するオレ。ピッチャーがモーションに入る。放たれたボールは内から切れ込むカーブ。それを泳いでバットに当てる。ライト前にポトリ。ホームインするかずや。初めて勝利を経験した瞬間であった。嬉しかった。そして驚いた、チームメイトが飛び上がって喜んでいる姿に。あんなに喜び、しかも全員揃って喜んでいた。あそこでエンドランのサインが出ていなければ、僕はあのカーブを見送っていただろう。監督はわかっていたのだ。勝利を授けてくださり、勝つ喜びを教えてくれた村井監督にはビヨンド・ディスクリプションな感謝をしています。また試合後、審判のバイトに来ていた先輩方に、お祝いとしてバイト代を頂いたのを、今でも覚えています。ありがとうございました。二年目はお気楽な一年であった気がします。そして、少しの不安と少しの自信を持って冬連に入っていった。
 三年目。四月になり春リーグが始まった。今年からはスタメンで試合にでることとなる。近大との開幕戦は非常に緊張した。だが、その中で集中して動くことができ、引退してから振り返っても、不安定であったが四年間の中で一番よく守れたシーズンであったと思う。しかし、まだ守ることだけで精一杯でバッティングでの活躍は期待できなかった。結局引退するまでバッティングで活躍するということはなかったが。特に守備でも活躍することもなかったですが。気づけば春リーグは終わっていた。実際、春リーグの記憶はほとんどない。なんとかスタメンでリーグ戦を乗り切る事ができたという感じであった。
 記憶は秋リーグまでとぶ。立命との開幕戦、23−0という記録的大敗を喫する。しかしその次の日、1−0で立命に勝つこととなる。この試合は非常にしんどかった。尾藤さんの熱投とバックの粘り、最後まで我慢の試合だった。最終回の守りも1アウト2塁のピンチを迎え、かずやのファインプレーからのダブルプレーで試合終了。京大の勝ち方は守り勝つものだなと思った。また、一点のホームベースを踏んだのが自分で、そのタイムリーを打ったのが水木あったことは何かしらの運命を感じてしまう。しかし、つぎの試合には負けてしまい、勝ち点を上げることはできなかった。今まではただ単に、私学に勝つという目標であったのが、勝ち点を上げるという目標に変わっていった。また、近大との一試合目に4−2で勝利でき、打ち勝つこともできることを知り、このシーズンは最下位脱出もあると思えたが、結局その二勝だけで終わってしまった。そして、先輩は引退した。村井監督まで引退してしまった。三年目を表す一言は必死であった。そして、最も苦しい一年が始まる。
 長尾新監督、舛永コーチを迎え新チームが動き始める。この一年、どんなことをしていたか詳しいことは覚えていないが、最上級生として、副将として、チームをまとめることができず、プレイでも活躍できず、自分の非力さを感じ、また悩みに悩んだ一年でした。
 うまく書くことができないので、思い出せることを羅列していきます。
そこには、驕りがありました。調子に乗っていました。斜めに構えて練習をしていました。最上級生という役割を勘違いしていました。監督・コーチ陣とすれ違いがありました。うまくいかないことを、人のせいにしていました。
 でも愚痴を言い合える人間がいました。同じ考えを共有できる人間がいました。同じ苦しみを共有できる人間がいました。それだけで頑張れました。
 僕の大学4年間は以上のようなものでした。多くのことを学び、成長させ、得ることができました。数え切れないほど多くの方々のお世話のおかげです。感謝を胸に、生きていこうと思います。
思い出の試合 二回秋新人戦の対同志社
 吉田の「一番」のポーズが忘れられない。

三回秋の対立命。
 苦しかったが、最高にうれしかった試合。

三回秋の対近大。
 ただのライトフライのことをV撃と呼ぶことを知った。

四回春の対同志社
 試合には勝ったが、自分は何もできなかった。
これからの夢 本気で生きる。
欲張って生きる。
後輩たちへ やるしかない。
京大ファンの
皆さんへ
 今までありがとうございました。応援は励みになります。人間、いつもやる気満々というわけにはいきません。少しでも京大野球部が頑張れるよう、強くなるよう、これからも京大野球部の応援お願いします。


通算打撃成績 試合 打数 得点 安打 二塁 三塁 本塁 打点 三振 四死球 犠打飛 盗塁 失策 打率
平成18年春季 4 4 0 1 0 0 0 0 2 0 0 0 0 .250
平成18年秋季 8 4 0 0 0 0 0 0 4 2 0 0 0 .000
平成19年春季 10 32 2 4 1 0 0 2 9 7 1 2 2 .125
平成19年秋季 12 32 1 5 1 1 0 2 13 3 4 0 4 .156
平成20年春季 11 37 2 7 3 0 0 1 8 2 4 1 3 .189
平成20年秋季 10 32 2 3 2 0 0 1 11 5 0 0 4 .094
通算個人成績 55 141 7 20 7 1 0 6 47 19 9 3 13 .142






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